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風ノ三郎伝説


宮澤賢治の童話「風の又三郎」の基となった「風野又三郎」のなかに「そんな小さなサイクルホールなら僕たちたった一人でも出来る。(中略)甲州ではじめた時なんかね。はじめ僕が八ヶ岳の麓の野原で休んでたろう。(中略)下に富士川の白い帯を見てかけて行った。」と、岩手県生まれで山梨県を訪れたことがない賢治の作品の一節に八ヶ岳や富士川などの名前がでてくることから、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)の寮で同室であった韮崎市(旧駒井村)出身の保坂嘉内から聞いた八ヶ岳の三郎風の話をヒントに書かれたのでないかと言われている。

三郎風とは八ヶ岳おろしの別称で、甲斐国史(1814年)には八ヶ岳に風ノ三郎ガ岳があったことが記されている。現在、風ノ三郎ガ岳がどの山であったかは定かではない。さらに風切りの里と呼ばれる北杜市高根町清里樫山地区には、暴風雨除けの「風の三郎社」があり、雨乞いをする「八ヶ岳権現社」、晴天を祈願する「日吉神社」と合わせて三社参りといって、270年前から終戦の頃まで「オハンネリ」といって米を紙に包んで奉納する神事が行われていた。

風の三郎伝説は、福島・新潟・長野県などにもあり、いずれも210日などの風水害から農作物を守り、五穀豊穣を願う信仰で、八ヶ岳山麓では高根町樫山と南牧村平沢の集落だけです。さらに嘉内が中学時代に描いた鳳凰三山から甲斐駒ケ岳に向って尾を引いて飛んでいくハレー彗星のスケッチに「銀漢(注:銀河のこと)ヲ行ク彗星ハ夜行列車ノ様ニニテ遙カ虚空ニ消エニケリ」の文章が添えられていることから、「銀河鉄道の夜」も嘉内から聞いた彗星の話しがヒントになったかもしれないとのことです。賢治と嘉内は同じ理想を持ち、文学などを通じて生涯の親友となるが、やがて宗教観の違いなどから離れていってしまう嘉内への心情を、「銀河鉄道の夜」の中で孤独な少年ジョバンニ(賢治)とその友人カンパネルラ(嘉内)に置き換えて書いたともいわれています。

はたして賢治は嘉内から風ノ三郎伝説や彗星の話を聞いたのでしょうか。

(小村寿夫)


風切りと呼ばれる赤松の防風林と八ヶ岳:風ノ三郎ガ岳はどこに。この防風林の中(右方)に八ヶ岳権現社がある。

八ヶ岳権現社:そば処北甲斐亭の近くの「五幹の松」と呼ばれる赤松(高根町指定天然記念物)の根元に明和元年(1764年)造年の八ヶ岳権現社の小さな石の祠(右)と、「風切りの松 風の三郎」と彫られた新しい石碑が並んでいる。

日吉神社:上手集落はずれの山腹にあり、鳥居をくぐって石段を登ると古い社が建っている。300年ほど前から行われている日吉神社の筒粥の神事は、毎年旧暦の1月14日から15日の未明にかけて大鍋に米と葭の筒を入れて炊き、葭筒の中の粥の入り具合で作物の出来具合などを占う神事で高根町の無形民俗文化財に、また、石段両脇の3本の杉の大木が高根町の天然記念物に指定されている。

風の三郎社:東原集落の利根神社の中に小さな石祠の風の三郎社(右)が利根神社(左)と並んで祀られている。風の三郎社は他の場所から移されたもので、苔むした祠の屋根が時代を感じさせる。

賢治と嘉内の碑:韮崎文化ホールの前にある銀河鉄道を模した嘉内が理想の農業を目指した花園農園と嘉内の歌稿、賢治の書簡が書かれた石碑。

銀河鉄道展望公園:南アルプスを望む韮崎市穂坂町には、夜、中央本線の列車の帯が空に駆け上がって行く銀河鉄道のように見えるという銀河鉄道展望公園がある。

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