特定非営利活動法人

八ヶ岳南麓「押ん出し」記

この報文は八ヶ岳南麓における明治31年と昭和18年に発生した集中豪雨および土石流災害について、過去の資料をもとにその全容をまとめたものです。

(この報文は中井一鴨氏から寄せられたものを、ご本人の了解を得て掲載しています。


報文の後半に写真・図集を付しています。



八ヶ岳南麓「押ん出し」記

中井一鴨 (北杜市小淵沢在住)

 この稿を書いている2011年11月現在、筆者が八ヶ岳南麓の小淵沢に居を構えて半年あまりになる。転居を1ヶ月後に控えた3月10日、中古で手に入れた住居の改修の最終打ち合わせをするために小淵沢を訪れた。その日は近所のB&Bに泊まり、翌日の午前中に無事に工務店の人と打ち合わせをし、そろそろ引き上げようとしているとき、ゆらゆらと家が揺れ出した。揺れ方から比較的遠方で大きな地震が起こったことは推測できたが、情報源から断絶され被害状況が分からないまま小淵沢駅に行った。しかし、駅は騒然とした雰囲気で、駅員にも運行再開の見込みは全く立たないようであった。已む無く列車はあきらめ、自宅に戻って、前回訪れたときに持ち込んだ石油ストーブを頼りに、停電の一夜を過ごすことにした。

 このようにして自然災害と共に小淵沢での生活が始まった。その上、8月、9月には日本各地で台風12号、15号による水害が発生し、身の回りの自然災害に関心をもたざるを得ない状況となった。不動産屋や近所の住民からは、小淵沢周辺には災害は無いと聞かされていたが、三分一(さんぶいち)湧水を見学に行くと、湧水脇の大きな石に「大荒れの碑・・・この石は昭和18年9月5日山津波のために押し上げられたものである・・・山津波が周期的に起こることを後世に傳える」と刻まれていた。そう言えば、周囲の田畑にも大小の火山岩らしい黒っぽい石が点在しているが、それらも山津波、この地方の言い方では「押ん出し」、がもたらしたものかもしれない。はたして、「押ん出し」を、過去のものとして忘れ去ってしまってよいものだろうか。少し詳しく過去の災害の状況を調べてみる気になった。

 まずウェブサイトを検索すると、NPO法人・山梨の自然と災害を考える会がまとめた「山梨県災害史年表」など、県下の災害についての数多くのサイトが見つかった。それらを参照すると、険しい山々に囲まれた甲府盆地とその周辺が、太古の昔から大きな風水害に何度も見舞われてきたことが分かった。

多くの資料の中で、三分一湧水にほど近い小泉小学校6年生の板山由惟さんが2010年に行った研究のパワーポイント資料「八ヶ岳南麓の土砂災害」が、筆者の目を引いた。彼女は研究の動機を次のように書いている。

今年の夏は集中豪雨によって日本各地で洪水がおこりました。「私の住んでいる北杜市長坂町は洪水などの自然災害の心配がなくていいなあ」と思いました。そのことを祖父に言うと「そんなことはないよ。八ヶ岳南麓でも土砂くずれや洪水で,たくさんの方がなくなっているんだよ。庭の石を見てごらん。あの大きな石だって昔、川から流れてきたんだよ」と教えてくれました。そこで八ヶ岳南麓の土砂災害について調べようと考えました。

庭にいくつも並ぶ大石の写真には、「昭和18年,私の家のすぐ横の川(古そま川)が荒れた時に,流れてきた大きな石」と説明が付けられている。後日、山梨日日新聞の記事から、この古杣川の氾濫と同じ日に、東に500m離れた高川で土石流が発生し、「大荒れの碑」にあるように三分一湧水が埋まったことが分かった。研究発表の中で、彼女は、もう一つの災害、明治31年の大泉村原谷戸土石流災害についても言及し、犠牲者を悼んで建てられた「嗚呼地水還身」碑を写真で紹介している。彼女の発表は、第3回ふるさと山梨郷土学習実践研究発表大会で大賞を受賞した(中北教育事務所通信No.6)。

板山さんの研究資料によって、明治末以降少なくとも2度の土石流が、八ヶ岳南麓を襲ったことが分かった。そこで、筆者も、災害当時の新聞や村誌などを参考にしつつ、自分の目で災害の現地を見ることによって、二つの災害の被害状況を把握する作業を試みることにした。

 明治31年および昭和18年の災害現場のおおよその位置を、図1にそれぞれX印およびY印で示す。一帯は、JR中央線と小海線とに挟まれた、ゆるやかに南に向かって傾斜する台地である。X印の横を流れる川が宮川、Y印の横が高川である。宮川と高川の現在の様子を、図2と図3にそれぞれ示す。ともに、普段はそこで大きな災害が発生するとは、とても想像できない細い流れである。しかし、宮川の河床に点在する大きな石は、川が荒れたときの水勢を物語っている。


大泉村土石流災害(明治31年(1898年)9月7日)

 明治31年9月3日からの甲府気象台による降水量の記録を下表にしめす。7日の値は、0時から6時までの雨量である。その後、データは9月12日まで欠損している。この欠損が大雨のためか、あるいは別の原因に因るのかは不明だが、当時の降水量記録を見ると、ひと月のうちデータのある日が半分もないこともあるので、欠損自体は珍しいことではない。

9月

甲府(mm)

3日

68.4

4日

0.5

5日

1.0

6日

166.0

7日

44.0

この間の周辺の降水量をチェックすると、甲府を筆頭として関東・甲信地方の降水量が多い。時期から判断して、東海から関東にかけて台風の影響下にあった可能性が高い。降り始めからの総降水量は、観測史上において特別記録的な値ではない。しかし、明治31年当時は森林の伐採による山の荒廃が著しく、また治水対策も不十分であったため、6日から7日にかけての雨は県下に大水害をもたらし、死者は176人に上った。中でも八ヶ岳南麓を含む北巨摩郡は、多くの河川が氾濫し100名近い犠牲者を出したが、同郡大泉村の土石流災害は特に凄惨で、犠牲者は55名を数えた。

 以下の記述は、災害後の山梨日日新聞に拠っている。山梨県立図書館(甲府市)がマイクロフィルム化して保管している新聞各紙のうち、明治31年にまで遡ることができたのは、同紙一紙のみであった。北杜市図書館所蔵の大泉村誌にも、この災害についての記載があるが、記述の多くは同紙からの引用を元にして書かれている。以下、引用記事はゴシック体で記す。記事の見出しの次に書く日付は、新聞が発行された日である。■は、活字が読み取れなかった箇所である。

 7日の新聞には、「土佐沖の低気圧徐々進行を始めたりといへば今明日位は油断ならざる天候なり」と警戒を呼びかけている。しかし、8日になると県下の多くの地域で水害が発生し、道路が寸断され、電報による通信が可能だったのは二局のみという状況になった。そのため、大泉村で土砂災害が起こったのは、後述するように7日の午前1時30分頃だが、新聞に第一報が出たのは、それから4日も経った11日のことだった。

大泉村の山岳崩壊(9月11日)

北巨摩郡大泉村に於いても又八ヶ岳山麓より(ナギ)と称する大洪水起こり山岳崩壊渓流汾湧したるため死者四十余名負傷三十余名斃馬十五頭倒壊家屋三十棟■五六十棟田畑の流失五十丁歩余に及び死体の捜索負傷者の救療中なりとの飛報に接し本県警察部より衛生課長久保村憲介検疫官北野豊二郎氏急行同地に赴けり被害の箇所は同村原谷戸組なり

 筆者の調査は、記事中の地名の場所を特定することから始まった。明治31年に用いられた地名が現在の地名と同じ場合は、比較的容易に場所を知ることができるが、異なる場合は現在の地名との対照が難しいことがある。例えば冒頭の北巨摩郡大泉村は、現在は北杜市大泉町に属する。この場合は、大泉村が大泉町になっただけなので比較的容易に対応を付けることができるが、原谷戸は現在の地名表記には表れない。しかし谷戸は存在するので、それを手がかりに、大正2年発行(明治43年測量)の大日本帝国陸地測量部の地形図と現在の地形図とを見比べることによって、原谷戸は、現在の北杜市大泉町の富谷、谷戸、下新居を含む一帯を指すことが分かった。

 被災地のおおよその位置が判明したところで、大泉村誌に原谷戸地区の入り口に建てられたとある「嗚呼地水還身碑」を見ようと現地に出向き、数人の道行く人に尋ねた結果、板山さんの写真にあったのと同じ風景の中に碑が建っているのを見つけた(図4)。

 11日の第一報に続いて、より詳しい状況が13日に伝えられた。しかし、これもまだ直接記者が現地に赴いての記事ではなく、11日の記事に記載のある久保村衛生課長の談話による記事である。

大泉村惨状詳報(9月13日)

谷戸組は戸数百七十を有し山腹に家をなせるものなるが六日午後十時に至り俄然落雷の如き響きありて何かは知らず頭を圧し来たりたる様覚えしが此れは此所より二里を隔つ山間より溪水の一時の決し来たりたるものにて為に中心に当たりたる家屋三十一戸九十棟は瞬間に洗い去られて痕跡をとどめず・・・

続いて大泉村の丸茂村長からの報告が14日に届き、18日の紙上に掲載された。

北巨摩郡大泉村特報(9月18日)

本村今回の大災害に就いては・・・本月七日午前一時頃八ヶ岳崩壊の為め洪水氾濫し窪地に集■したる■水と共に非常の勢力を以て二時ごろ本村■谷戸組の上位より山の如き怒涛奔下して同組を■貫して大惨状を極めたり・・・

13日の記事では6日午後10時に「落雷の如き響きありて」となっているが、丸茂村長の報告では7日午前1時頃に「山の如き怒涛」が村を襲ったと書かれている。土石流の速度は自動車並みと言われているので、前日の午後10時に山間部で崩落があったとすれば、その約10分後には麓に到達しているはずである。この後の記事には、6日午後10時の轟音については触れられていないところを見ると、誤報であったか、あるいは村を襲った土石流の原因となった崩壊とは別の崩壊が山間部で起こったかであろう。

丸茂村長の報告が掲載された18日に、山梨日日新聞の上野逢羊記者が大泉村への出張を命ぜられ、現地に赴いた。以下にその報告を詳しく見ていく。

上野記者の「水害巡視録」は、23日、25日、27日、30日の4回に亘って紙上に掲載された。同記者は、これより前に県下の各被災地を歩き回って困難な取材を続けていたことが響いて、「頭痛交々来たり一歩も前に進む能はず・・・」という状態だったのだが、「再び大泉村出張の命あり病を養う暇なく18日の払暁出発して韮崎に出で七里岩を登り・・・」とある。七里岩は、およそ20万年前に発生した火砕流の堆積物が、八ヶ岳の裾野を北西から南東へ流れる釜無川によって浸食されてできた険しい崖である(参照「八ヶ岳火山」)。現在も、釜無川の右岸から、八ヶ岳の山麓方面に向かおうとする者は、橋を渡った直後から何度もヘアピン・カーブを巻いてこの崖を登らなければならない。上野記者の苦労は大変なものであったろう。(以後、八ヶ岳南麓に立って、山の方を上手、釜無川の方を下手と書くことにする。)

水害巡視録(第七報)(9月23日)

◎大泉村の惨状(上)

七日の午前一時半とおぼしき頃北方八ヶ岳の山麓に当たり轟然一声天地も裂けんばかりの響聞ゆると共に怒涛奔騰一時に押し寄せ来たりて先づ鳥の池の三井小兵衛の家屋を倒し・・・・

竹の原は七八町歩を流失し巨石累々道に横り回復の見込みなし竹の原より下方日町に至る・・・

逸見神社に出づれば右側の道路一丈余りも欠壤し河岸に数丈の巨石ありたれど何処にか流失し行方知れず・・・

 見出しにあるように、県下各地の被災状況報告の第七報目である。この記事において始めて、災害発生時刻がおよそ午前1時半と特定される。しかし、前述のように、6日午後10時の轟音については触れられていない。取材から漏れたのか、あるいは、13日の記事に誤りがあるのかは不明である。

ここに四つの地名が書かれている。「鳥の池」は、被災地域の上手を東西に走る広域農道(レインボーライン)の横にある湧水池である(図5)。ただし、鳥の池周辺は森林に覆われ、まれに別荘が在るだけで、当時、人家がその傍にあったとは考えにくい。記事中の「鳥の池」は、次の25日の記事に言及のある「鳥の池組」を指すのではないだろうか。鳥の池に至る道がある原谷戸最上部の住民を、そのように称したと思われる。一方、逸見神社は谷戸地区の下手、宮川の左岸に在る。板山さんの研究でも紹介されているように、神社の境内には過去の土石流によってもたらされた巨岩が、あちこちに累積している。上の記事には、逸見神社に異変があったとは書いていないので、道は抉られたが神社は無事であったと考えられる。現在、道路は神社の東側、つまり神社より川から遠いところを通っているので(図5)、この被害状況には不審を覚えた。しかし、現地に行って見ると、神社と川との間に地形図にはない幅5mほどの農道があるので、増水した河水に抉られた道はこれだったとすると、矛盾は無くなる。

記者は、逸見神社に至る前に「竹の原」、および「日丁(にっちょう)」の被害状況を見聞している。(記事には日町とあるが、おそらく「丁」を「町」と取り違えたのだろう。筆者は始め「日町」を「ひまち」と読んで、同名の地を探したが見当たらなかったところ、浅川伯教・巧兄弟資料館学芸員の澤谷滋子さんに「ひまち」ではなく「にっちょう」ではないかと指摘していただき、場所を特定することができた。)記事によると、竹の原や日丁では、家屋や田畑に被害があったものの人命の被害はなかったようである。これらのことから、現在の広域農道の下手から逸見神社に至る、宮川に沿った約1.5 kmの地域に甚大な人的被害が集中した見られる。「嗚呼地水還身碑」は、ほぼその中心に建っている。

 25日の「水害巡視録 大泉の惨状(下)」には、記者が聞き取った被災と救助の様子が詳しく書かれている。記事中に「たまたま樋口写真師の県庁の命を以って惨状を撮影するに遭い」とある。これを元に、県庁に写真資料の有無を尋ねたが、保管されていないとの返答だった。ウェブサイトには、土木学会図書館所蔵として、表装の裏に甲府市樋口桃雲写真館と印刷された、明治29年に釜無川と富士川で発生した出水の様子を撮影した写真が提示されていた。上野記者が大泉村で出会った樋口写真師と同一人物であった可能性がある。甲府市に同名の写真館が1軒あるが、電話をしたところ、樋口桃雲氏とは無関係とのことだった。

 上野記者は、土石流の原因を探ろうと、自ら宮川の上流を探査した。その時の観察と彼の解釈が、9月27日と30日の2報にまとめられている。

水害巡視録(第八報)(9月27日)

◎ 西澤の探検(上)

大泉村の河川は元来■■たる小流のみにして彼が如き猛威を逞し得べしとは思はれずまた雨量に於いても今回に勝る事従前来?々ありしに獨り今回に限り未曾有の水害なりしは一般の怪しむ所なるが其出水時間の極めて短時間なりしと浸水の突然なりしとに依て考ふれば山岳崩壊の為め中途■堰塞されたる水の一時に押し寄せたるに因るや必せり之目下一般の説なれど扨て水は何処に於いて如何なる状をなして堰塞されしや漠然西澤ならんとの想像のみにして未だ一人の実情を探求したる者なし

 この記事からも、堰止湖説が被災地において一般に流布していたことが伺われる。問題の堰が作られた場所を宮川上流の西沢と推定した上野記者は、実地にそれを確かめるために宮川上流に向かった。

原谷戸を過ぎて再び其荒亡を吊し北に進む事数町小玉岩に至る・・・小玉岩より進んで鳴石堤破壊の跡を見

 谷戸地区の「ひまわり市場」と称するスーパーの駐車場内に日本小水力発電株式会社の事務所があり、その前に、上部にしめ縄が取り付けられた、幅、奥行き、高さともに4-5 mはありそうな巨岩が居座っている。事務所で、由来を聞くと鳴石だと言う。ただし本当の鳴石ではなく、事務所建設の際に地中から掘り出されたものである。鳴石は「成る石」に通じるので、会社の繁栄を願ってそのように名付け、お祭りしている。本当の鳴石は、どこかこの近くにあるらしいが所在は知らない。このような説明を受けた。

鳴石が現存する可能性が出てきたので、さらに所在を尋ね歩いた結果、通行人の一人からその在りかを聞くことが出来た。早速行ってみると、レインボーラインから上手に500 mぐらいのところに、ほぼ駐車場にあった岩と同じくらいの大きさの岩を見つけることができた。傍らに名前とその由来の民話を書いた説明板が立っている。しかし、車がかろうじて通れるぐらいの道から、さらに雑木林を100mばかり分け入ったところにあるので、人目にはつきにくい(図5、6)。地元の人にも、必ずしも親しいものではないらしい。

八ヶ岳南麓に広がる田畑は、広々としていて、一見耕作に適していると見える。しかし、少し掘り返すと、丸みをおびた1m大の岩がごろごろ出て来る。周辺を歩いていると、田畑や人家の庭の隅に、そのような大石が並べられているのをよく見かける。これらの岩は、過去の土石流によって上流から運ばれてきたのだろう。その中でも、新旧二つの鳴石は特に大きいため、民話の題材になったり、祭祀の対象になったりしているのだろう。

 鳴石は、雑木林に覆われた浅い沢に在る。ところどころ水の流れが見える沢を下ると、自動車でその横を通った用水池に出る。おそらくこの池の堤を、鳴石堤と呼び習わしていたのだろう。残念ながら、小玉岩の所在は今も分からない。

 ここに来て疑問に思うのは、土石流の流路の事である。鳴石堤の近くでは宮川は、南南西に向かって流れている。一方、上野記者が土石流の発生源と推測している西沢の出口は南南東を向いている。そのため、西沢の出口から扇状に広がる原谷戸上部の田畑に出た場合、土石流の主力はそのまま扇の中心から東側に広がり、扇の西端にあって、しかも宮川の河床からほぼ10mの高さにある鳴石堤を破壊したとは考えにくい。土石流が、もっとも強力に鳴石堤に激突するには、宮川の河床ではなく、むしろ鳴石のある沢を下ってこなければならないだろう。しかし、鳴石堤と西沢の出口の間には、山麓の尾根が張り出している。この土石流の流路についての疑問は、上野記者も感じたらしく、後出の記事で自説を述べている。

 破壊された鳴石堤を見た後、大泉の地名の元となった大湧水に向かう。記者は、その途中の一情景を詩情豊かに叙す。

林を出づれば広原にして秋草所々に咲き乱れ紫苑妍を闘し秋蝉遠く林間に鳴きて幽趣掬すべし十数日来惨怛たる光景に眼を患ひたる予は此好景を見て逸興禁じ難く佇立する事数分而も嚮導の人来春に至らば細民食ふに物なく此草芽を摘みて食するように至らんと語るを聞くに及んで興趣忽去りて再び涙に暮れぬ

水害の跡を見て廻った眼には、草原の風景が事のほか風趣に満ちたものに映ったのだろう。ここで注目したいのは、鳴石堤から大湧水に至る区域には土石流の跡が無い点である。やはり、土石流は林間の沢を通って鳴石堤を襲ったのではないか。

 記者は、大湧水を見て、再び宮川へと戻る。

泉より進んで宮川の東岸に出づ三丈余りも水を押し上げたる痕跡あり宮川を渉りて東西両沢の咽喉中小岬(なかこみさき)に至る南岸には数丈の高きに水を押し上げ南流したる痕跡あるにも拘らず東岸河床と殆ど平衡せる数頃の林野あれど此には浸水の痕跡なし

 「東岸河床と殆ど平衡せる」の意味が不明だが、平衡を並行と読み替えると、「東岸に沿って」と解することはできないだろうか。(頃(ケイ)は広さの単位。1頃は約6700 m2。) 前述のように西沢の出口は南南東を向いているにも拘らず、土石流は東岸方向には突出せず、専ら南に向けて流れくだった。南に下るにあたっては、土石流は右岸の高みを越えなければならない。その跡が見えると記者は書いている。1丈は約3mだから、10 m以上の高みを乗り越えたらしい。

西沢より流出したる河水東沢の合併を得勢益猖獗となり丘陵となく林となく突射して南流し数十町歩の桑原田圃を掠めて鳴石堤八十間余を破壊し進むで小玉岩を衝き岩の為めに流域東西に分岐し西なるは宮川に入て行原日町等を侵し東なるは溢れて原谷戸に至り

 土石流は、南南東から南南西にゆるくカーブする宮川を、ショートカットする形で南進し、鳴石堤を襲った。その後、小玉石に衝き当って一部が宮川に入ったとある。従って、小玉石は鳴石堤の下手、宮川の河床かその近くにあったはずである。「行原」は「竹(の)原」の、また「日町」は前述のように「日丁」の誤記だろう。図5に書きいれた赤矢印は、推定される土石流の流路を示す。

 最後に、記者は西沢の上部における観察を書き、土石流の発生のメカニズムについて推論している。

水害巡視録(第九報)(9月30日)

◎西澤の探検(下)

中小岬より進んで西澤に入る行くこと数町渓畔の経路全く崩壊したれば歩行の困難なる名状すべからず中小岬より十数町の地にコユワワキと称する地あり高さ三丈長さ十四五間の巨岩西岸より東岸に突起し眼下樵路通じたりと聞けど今は其片影だに留めず

 高さ三丈、長さ十四五間は、それぞれ9 m、25 mだから、溶岩の露頭ではなく独立した岩だとすると、大変な大きさである。それが消えていたというのも驚きである。記者は以下のように、観察をまとめている。

(イ)大泉出水の時間は極めて短時間にして其水勢の猛烈なる単に渓流の暴溢とのみは思われず

(ロ)中小岬浸水の痕跡■依て見るも水勢の猛烈なりしは明らかにして想像し得ざる猛烈の勢いを以って一直線に進みたるが如し此の如き猛烈たる水勢は決して徐々として増水せるものとは思はれず

(ハ)コユワワキの巨岩は全く破壊され岩の上方十数町の間は浸水の痕跡甚だしくそれより上方は漸く低下せり

(ニ)今回の出水の為め従前見ざりき小瀑布を幾十となく作り瀑布の上方は必ず崩壊せり

(ホ)瀑布の方は浸水の痕跡高く下方は低く而して次の瀑布に至るに従い漸く浸水の痕跡高まれり

東沢と西沢が出会う中小岬から十数町上流にコユワワキと呼ばれる地、あるいは巨岩があった。1町は約109 mだから、十数町を仮に12町とすると約1300 mである。西沢は出会いから約1 km上流でS字状に曲がりくねり、その部分が特に急峻なV字谷になっている。S字の上部あたりにコユワワキがあったことになる。そこからさらに十数町上流まで甚だしく増水した跡が認められると書いている。標高を地図で確認すると、コユワワキは標高1250mにあったことになり、そこから上流に十数町とあるのをやはり1300 m上流とすると、その地点の標高は1400 mである。コユワワキとの標高差は150 mある。コユワワキの地点で深さ150mの堰止湖が出来たとは考えにくい。おそらく図7のように、階段状に水が流れたことを指しているのだろう。

 このような観察を元に、記者は次のように土石流の原因を推測している。

以上の現象に依て予の推測を下せば

(A)今回の出水は河川の暴溢という単純なる理由に非して西澤の溪間に於いて流木か大石か溪の狭所に引っ掛り崩壊せる土砂草木は自然に此に堆積して水を堰塞したれど刻々増し来たれる水は遂に此堰塞物を乗り越したる故に下方は水の為めに掘られて(ニ)の如く小瀑布を作りたり

(B)水一所に堰塞されたる故■現存せる瀑布■■堰塞されたる場所の上方に(■)の如く浸水の痕跡高く其下方は低きには非らざるか

(C)流木或は土砂を以て水を堰塞したる障害■も遂に水の圧力に堪えずして破壊水と共に流れたれど又溪間の狭所を求めて此に堆積し水を抑塞したる為め所々に小瀑布を作りたるならん故に瀑布に近くに従い(ホ)の如く浸水の痕跡高く瀑布の下方は低下し次の瀑布に従い漸く高まりたるならん

(D)此の如くして渓流所々に堰塞され堰塞されては之を破り遂にコユワワキに至りて巨岩に堰塞され此にて出来得る丈水を湛えたれどさしもの巨岩も水の圧力に堪えずして破壊したる故に猛烈なる勢いを以って怒涛一時に押し寄せたるには非ざるか浸水の前八ヶ岳の山麓に当て轟然たる響を聞きたりというはコユワワキの破壊せる響ならんと想像す

(E)最後にコユワワキに渓流堰塞されたり故にコユワワキの上方十数町の間は浸水の痕跡高くそれより上方に進むに従い漸く低下せるならんと信ず

 上野記者は、コユワワキの巨岩崩壊が、甚大な被害をもたらした土石流の原因と結論付けている。一方、記者は、東沢にはほとんど関心を示していない。記者が探訪したとき、西沢が非常に荒れた状態であったのは間違いない。しかし、中小岬の南岸を駆け登った土石流が、西沢から落下してきたものであるとは考えにくいのではないだろうか。図8に示すように、中小岬から鳴石堤まで、土石流が直進するには、西沢からよりむしろ東沢から土石流が突出したと考えるほうが無理がない。東沢の状況について記者が触れていないのは残念である。図9は、西沢と東沢の合流点(中小岬)付近の写真である。東沢の方が流量が多いのは、東沢の方が西沢より奥行き、幅ともに大きく、それだけ広範囲に雨を集めることによる。図10は、合流点の東側斜面上にあるホテルのテラスから撮った三ツ頭(標高2580 m)の写真である。西沢は樹間に隠れて見えないが、東沢にはガレ場が多数見られる。谷の左の稜線直下には、広範囲に斜面がずれ落ちたことによって生じたと思われる崖が稜線に沿って見られ(図10の赤破線部)、東沢が現在も不安定な状態にあることが伺える。今となっては、明治31年9月7日の土石流の発生地点を、確定することは不可能だが、過去の資料が述べている西沢説に加えて、東沢にその原因が在った可能性も無視できないことを指摘しておきたい。


小泉村土石流災害(昭和18年(1943年)9月5日)

 前項と同様、まず山梨日日新聞の記事を拾ってみよう。

八ヶ岳山麓 古杣川氾濫(9月7日)

少年行方不明 家屋被害

八ヶ岳編笠岳東寄り古杣川が氾濫し小泉村地内に左の如き被害があり・・・小荒間部落の泉国民学校小荒間分教場は六日臨時休業し、大井ヶ森部落の学童も登校を見合わせた

△小荒間区xxxx氏方・・・住居物置倒壊 大井森区共同水車流失  xxxx氏二男xxxx君(14歳)行方不明△消路−三分一甲斐小泉間県道流失△橋梁−高川橋、女取橋外二橋流失△農耕地−小荒間地内十一町歩、向井澤、大森地内六町歩土砂流入△その他 県恩賜林地内外立木雑草地流失国民学校小荒間分場土砂侵入・・・

小海線清里甲斐大泉間及び甲斐小泉小淵澤間出水のため列車不通

見出しに古杣川氾濫とあるが、被害地としては古杣川から離れた小荒間や高川橋などが上がっているので、記事を読んだ当初はやや混乱した。しかし、被災地を一つずつ確認していく内に全体像が明らかとなった。

大井ヶ森地区では、幸いなことに、水害を体験した人から直接話を聞くことができた。家の横を流れている古杣川の水が溢れてきたので、水の中を川から離れたところへ避難したが、家屋敷は浸水はしたものの無事であったとのことであった。また、記事にある大井森共同水車については、古杣川と県道608号が交差する辺りにあったことが確認できた(図11)。

記事には、「三分一甲斐小泉間の県道流失」「高川橋」流失と、高川の氾濫を思わせる記述が在る。又、上述のように同日に、高川の近くにある三分一湧水が埋没したことが分かっている。土砂が流入した国民学校小荒間分教場は三分一湧水と道を挟んだ東側にあり(参照「三分一の本」)、住居と物置が倒壊し、次男が行方不明となったxxxx氏(個人名は伏せる)の住居も、調査の結果、三分一湧水の北方約100m付近にあったらしいことが分かった。

さらに、古杣川の西を流れる女取川でも橋の流失があり、翌日の新聞には川俣川(甲斐大泉と清里の間を流れる渓流(図1参照))に架かる月ノ木橋が流失したとある。昭和56年発行の「釜無川の水害」(菊島信晴 編著)には、以下の記述がある。

昭和18年9月5日午前7時30分頃突然の大音響が北方に起こり、人々は空襲かと驚いたが、これは八ヶ岳方面の蛇押にて、砂礫木材を押し流し大出水にて各マチは決壊されたり<若神子新田堰の人足帳より>

「三分一湧水の謎」や「大泉村誌」にも、この時の災害についての記述はあるが、いずれも簡単なもので、高川や古杣川の氾濫発生時刻が特定できる資料は見当たらない。そのため、ここにある「大音響」が三分一湧水を襲った土石流によるものかどうかは不明である。若神子(わかみこ)は北杜市須玉町が制定される前の村名であるから、川俣川(下流で須玉川になる)に架かる月ノ木橋が押し流されたときの音である可能性が高い。

 以上のことから、昭和18年9月5日の水害は、八ヶ岳南麓の女取川から川俣川にかけての河川で発生し、中でも古杣川が大井ヶ森地区で、高川が小荒間地区でそれぞれ氾濫したと分かる。

高川の氾濫による土石の侵入は、11町歩に及んだ。すなわち、およそ330 m四方の面積である。その中に、高川橋、三分一湧水、国民学校小荒間分教場が含まれている。昭和21年発行の内務省地理調査所の地形図に、面積と被災地名から推定できる被災地区を赤線の囲みで示す(図11)。大井ヶ森地区では、水車が流失した他は、家屋の倒壊はなかったようであり、また聞き込み調査の結果からも、浸水は突発的なものではなかったと推定される。地形図を見て分かるように、被害のあった小荒間と大井ヶ森のいずれにおいても、河川がS字状に屈曲している。直線状に下ってきた水流が、屈曲部で川岸をせり上がって氾濫したと言うことが考えられる。

上述のように複数の河川で氾濫や橋の流失が起こっていることから、かなりの雨量があったはずだが、甲府における降水量は、2日に強い雨があったものの、被害のあった5日とその前日、前々日は小雨程度であった。周辺の観測所でも河口湖で、4日に16.2 m、5日に13.6 mと、ややまとまった雨が降った以外は、小雨の記録があるのみである。従って、豪雨があったとしても、それは局地的なものだったのだろう。

9月

甲府(mm)

1日

21.2

2日

62.6

3日

0.1

4日

0.3

5日

3.3

図12は、南八ヶ岳と河川の概念図である。古杣川と川俣川の間を流れる宮川では被害の発生は報告されていないことから、赤岳から権現岳周辺で豪雨になり、権現岳と前三ツ頭とを結ぶ稜線を境に、東の谷に流れ込んだ雨水は川俣川へ、西の谷に流れ込んだ雨水は古杣川と高川に流れ込んだと推測できる。

  実際に、このような集中豪雨が南八ヶ岳で起こるのか、気象庁の気象統計情報を調べた。気象庁気象統計情報のウェブサイトには、各種観測量の1位から10位までの日付のリストがある。大泉の1時間降水量の1位は、1981年7月16日の45mmである(統計は1976年3月から2011年11月)。この日は、20時の1時間に45mmの雨が降り、その前後は数ミリの小雨だった。周辺の観測所の同時刻の記録を見ると、野辺山で20 mmの降雨があった他は、数ミリ程度の雨しか降らなかった。その他、1時間降水量3位の2005年8月8日(雨量は43mm。以下同様)、7位の2008年6月12日(32 mm)、9位の2008年8月31日(31.5 mm)における日向山、野辺山、原村など大泉周辺の観測所の降水量を調べると、いずれも1時間数ミリの小雨ないしは降雨記録無しであった。

これらの記録から、八ヶ岳南麓では、半径十数kmの範囲で集中的に雨が降ることがあると分かる。特に2000年以降の頻度が高いことにも注意をしたい。大泉の年間降水量は平均1145.8mmと全国的に見てかなり少ない方である。そのため八ヶ岳南麓の川の多くは、普段は枯れ川であったりごく細流であったりする。しかし、一旦大雨になると巨大な岩石を押し流す激流となるのである。

このような気象の特徴に加えて、昭和18年の水害を理解するためには、八ヶ岳南麓の地形的な特徴も考えておかなければならない。南八ヶ岳は、急峻な山岳と麓の広闊な高原からなっている。各河川は、山間部の渓谷から急に高原状の麓へと流れ込むが、川俣渓谷を除くと麓には深い谷は形成されておらず、ごく浅い河床を持つ川があるだけである。(その理由の一つとして、年間降水量の少なさを上げることができるだろう。)このことが、広々とした耕作地や牧草地を保証しているのではあるが、同時に川の流路が不安定になる原因ともなっている。

住民の生活範囲を流れる川が、普段はごく細流であるため、ついつい警戒を怠りがちになるが、一旦大雨が降るとかなりの水量が河床の浅い川を一気に流れ落ち、川の屈曲部などで砂礫と共に溢れでる。昭和18年の水害は、このような地域独特の河川の特徴を、如実に反映した災害であったと考えられる。

後  記

 今回の調査では、災害に遭った地域とその周辺を何度も車で行き来したり、歩いたりした。八ヶ岳の山々の麓を、およそ標高1300mの等高線に沿って通っている観光道路、八ヶ岳高原ラインもその一つである。ウェブ情報によると、1976年(昭和51年)に有料道路として開設したとある(現在は無料)。明治31年に水害のあった宮川上流の西沢と東沢を道路が横切る地点で車を降りて、沢を覗き込むと、道路下に埋設された金属製パイプに沢水が流れ込んでいるのが確認できる。気を付けて見ていると、同じ工法が山麓のあちらこちらで用いられている。土木には全くの素人だが、大雨が降れば木の枝や礫が詰まって水が溜まり、道路が冠水したり、押し流されたりするのではないかと心配になった。

 最新の地形図を見ると、宮川や古杣川の上流にあたる沢筋には、土石流の被害を防ぐために、いくつも小規模な堰堤が築かれていることが分かる。実際にそのいくつかを見たが、いずれもかなりの年月が経っているようであった。堰堤は築かれた直後から、砂礫によって埋まっていくが、河床に段がある間は、流れ下ってきた土石流の勢いを殺ぐので有効に働く。しかし、段差が解消されてしまうほどに砂礫が溜まってしまうと、その役を果たせなくなる。定期的な改修が適正に行われていることが望まれる。

「嗚呼地水還身碑」を捜して、谷戸地区の道を歩いていた時のことである。農家の庭先で作業をしていた二人の老婦人に碑の所在を尋ねたところ、互いに顔を見合わせて「自分達はここに嫁に来た者だから知らない」と言われた。明治31年の大泉村水害から113年、昭和18年の小泉村水害から68年経ち、その記憶は語り継がれることなく、ほとんど忘れられていると言ってよいだろう。

過去の災害の記憶が、新たな災害によって呼び覚まされることがあってはならないのだが、現実には我々は、不意打ちをくらって慌てることが多い。「嗚呼地水還身碑」や「大荒れの碑」を村の中に建て、後世への戒めとした先人達の願いを、無にしないようにしたいものである。(2011年11月 記)

謝  辞

 浅川伯教・巧兄弟資料館の澤谷滋子学芸員と同館スタッフには、有益な資料を提供していただき、また数々の調査を要する質問にも答えていただきました。深く感謝の意を表します。大泉金田一春彦記念図書館、北杜市郷土資料館、山梨県立図書館の職員の皆様には、資料の検索等に御助力をいただき、大変ありがとうございました。

参考文献

山梨日日新聞 明治31年9月7日−10月14日,昭和18年9月7-8日

「釜無川の水害」菊島信晴 編著,1981年

「大泉村誌」大泉村誌編集委員会 編,1989年

「八ヶ岳火山−その生いたちを探る」八ヶ岳団体研究グループ 編著,2000年

「三分一湧水の謎」きたむらひろし著,2000年

「三分一の本」北杜市郷土資料館 編,2004年

筆者連絡先

中井一鴨

408-0041 北杜市小淵沢上笹尾3332-126

電話:050-8002-7802

携帯:080-6112-5426

E-mail:hx9h-nki@j.asahi-net.or.jp


  八ヶ岳南麓「押ん出し」記 写真・図集

 

図1 山梨県北杜市長坂町周辺図。X印が明治31年、Y印が昭和18年の災害現場付近。((C)YahooJapan)


図2 宮川                        図3 高川



図4 嗚呼地水還身碑


図5 大泉村土石流災害現地地形図(国土地理院発行の地形図に一部加筆)



図6 鳴石


図7 西沢における水流の模式図


図8 大泉村を襲った土石流の流路(国土地理院発行の地形図に一部加筆)



図9 中小岬付近の(左)東沢、(右)西沢


図10 三ツ頭と東沢上部



図11 昭和18年水害地区。流された水車の位置と、土石被害を受けたと推定される地域を、それぞれ赤で示す。
(昭和21年内務省地理調査所発行の地形図に一部加筆)



図12 南八ヶ岳概念図

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